別冊モナリサ|被災地支援報告 杉本哲也






































 7月6日の朝に新大阪駅を出発して、宮城県の南三陸町の支援活動を行ってまいりました。南三陸町市は宮城県の北東部、気仙沼と石巻の間にあり、津波の被害が最も大きかった場所の一つです。

 今回の支援は、6月中旬に国会議員会館で開かれた被災地の現状を報告する会で南三陸町・志津川高校避難所のリーダーを務める内田卓磨さんと知り合い、6月末に南三陸町から自衛隊が撤退してから、志津川高校避難所が大変な状況になっていると伺って、支援に行くことになりました。

 内田卓磨さんは志津川の駅前でスポーツバーを経営していたのですが、震災に遭い、店も自宅もすべて津波に流されました。彼は被災者にもかかわらず、震災以来、志津川高校避難所の食事を全員分用意する担当を買って出ました。自衛隊の救援活動もあり、震災から3カ月経って避難所の様子も安定していたのですが、6月末に自衛隊が撤退してから、働きに出る人たちの朝食を準備するのが非常に大変なので、なんとか助けてほしいということでした。

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 最寄りの駅から始発電車に乗り、朝6:17新大阪駅出発の新幹線に乗り、東京駅を経由して、仙台駅を目指しました。仙台駅には11:30ごろ到着し、そこで今回一緒に活動をしてくれる釜谷さんと落ち合いました。仙台駅でレンタカーを借り、南三陸町を目指しました。

 途中で朝食のみそ汁の具になりそうな野菜をスーパーで大量に購入していきました。東北道に乗って若柳金成ICで降りて、登米市などを経由して南三陸町の志津川高校に向かいました。

 仙台から3時間ほどかかり、南三陸町に入りました。南三陸町は壊滅という言葉でしか言い表せない状況でした。実際、震災前の南三陸町の人口は約17000人、その中で震災による死者・不明者が合わせて約1200名という甚大な被害です。震災直後は10000人以上と連絡がとれない状況が続いていたというのも、よく理解できました。



 車で志津川高校へ登っていく道の入り口付近に『内田』という表札がありました。今回の救援先の内田卓磨さんのお家です。家自体は津波ですっかり流されていました。道路を上っていくと、志津川高校の敷地内に避難所と仮設住宅がありました。志津川高校には体育館が2つあって、1つの体育館を避難所に、もう1つの体育館を物資の倉庫にしていました。内田さんが食事の用意をするのは、部活動の合宿所の調理室です。

 物資倉庫になっている体育館の2階に、喫茶店が出来ていました。避難所の中では、大きな声でゆっくり話をすることができないので、被災者同士で話をしたり、ボランティアが休憩したりするための場所です。

 テーブルは学校の教室机に大きめのナプキンをかけてあるだけで、椅子も教室の椅子ですが、飾り付けなどがされていて、それなりの雰囲気が出ています。メニューは救援物資の中の物を無料で提供という形式で、少し息抜きするにはいい場所です。物がない中でも工夫をすれば、なんでもできるということをしみじみと感じました。

 その喫茶店で、内田さんから震災以来の出来事をお話してもらいました。震災直後は近くの老人ホームで亡くなった方々の遺体を運んでいたことや、国内からの救援物資がなかなか届かず外国籍のヘリが落としてくれる食材で調理をしていたことなど、講演のときには聴けなかった話をしてくれました。

 その後、避難所の中や物資倉庫を案内してもらいました。避難所は今でこそ、各家庭の段ボールスペースがありますが、震災直後は一人一畳程度しか場所がなかったことや、当時は寒かったので、教室のカーテンをぜんぶ取ってきて、みんなでくっつきながら暖をとっていてことなど、厳しい現実を教えてくれました。

 また物資倉庫には、たくさんの冷蔵庫が置いてありました。その冷蔵庫は、原発の爆発によって被曝を恐れて帰国してしまったブラジル人たちが日本で使っていたものです。それらを、本国から日本にボランティアに来たブラジル人が集めて、「日本人のために使ってほしい」と願い出てくれたそうです。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」です。これらの冷蔵庫は、仮設住宅で冷蔵庫が足りないところに配られるそうです。外国人の中にも、今回の震災に対して色んな人がいることがよくわかりました。

 志津川高校内を一通り、案内してもらった後に、今度は南三陸町の中を案内してもらいました。南三陸町を襲った津波の高さは約17mだったそうです。志津川高校から南三陸町内を眺めると何もかもが流されてしまった感じです。

 南三陸町の中心部・志津川付近には、保育所、幼稚園、小学校、中学校、高校がありますが、すべて高台に建っています。内田さんは小学校の頃から「なんで坂道を上って通学しないといけないんだ?」と疑問に思い、幼稚園・小学校・中学校・高校と計14年間に渡って「上りの通学」をしたそうですが、今回の津波に遭って、その理由がはっきりとわかったようです。

 町の中心地から少し離れたところにある3階建てのマンションの屋上に、車が乗っていました。津波に流されて置き去りにされたものです。いかに高い津波がこの南三陸町を襲ったのかがよくわかります。

 町の中心には志津川が流れているのですが、その近くに「防災対策庁舎」がありました。新聞でも話題になりましたが、24歳の町職員・遠藤未来さんが、津波到達直前まで防災無線で叫び続けた場所です。

 彼女は4月下旬に遺体となって発見されました。建物は津波によって、鉄骨をのこすのみとなっていましたが、その噂を聞いてここを訪れた人たちが、入り口付近に祭壇を作り、そこに様々な物が供えられていました。

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 南三陸町から車で1時間くらい離れた登米市内に泊まり、2日目は登米市内のスーパーで朝食用のカップスープやレトルト味噌汁などを届けました。

 2日目は内田さんの弟・智貴さんもいて、二人で喜んでくれました。内田兄弟は、兄弟揃って強面タイプなのですが、二人とも根は優しく、誰からも愛されるキャラで、周囲の人たちを終始楽しませていました。

 震災から4カ月が経ち、避難所で生活していた人たちの多くが仮設住宅に入居するようになりました。避難所も大変なのですが、もっと大変なのが仮設住宅の入居者です。避難所では救援物資があり、毎日の食事も避難所で賄ってもらえたのですが、仮設住宅は自立の第一歩ということで、住む所と生活用品の一式が与えられるものの、お金がなければ食べる物もままなりません。

 仕事のない人は、仮設住宅に当選しても、期限いっぱいまで避難所にいて、ギリギリになって仮設住宅に入居するようです。こうした人たちは仮設住宅に入っても、いきなり自立することができません。

 内田兄弟はこうした現状を踏まえ、避難所に届く水などを、仮設住宅に戸別配付していました。役場の人たちからは「自立の妨げになるのでやめてください」と注意されるようなのですが、仮設住宅に入ったものの、とにかく水すら買えなくて困っている人たちに救いの手を差し伸べようと二人は頑張っていました。

 南三陸町の仮設住宅は、建築基準を満たす敷地が少なく、一か所あたり30~40棟くらいで様々な場所に分散していました。私も水をいっぱい積みこんだトラックに乗り込んで、各仮設住宅地へ行き、一軒一軒水を配って歩きました。留守の家には、ポストの下に置いておき、在宅の家には、玄関の中に置いて回りました。

 多くの人からは「いつも悪いね。ありがとう」と感謝されましたが、中には「うちは施しはいらないからね」と断られる方もいました。

 水の戸別配付を終えて、志津川高校に戻ってくると、栃木県のボランティア団体が炊き出しに来ていました。避難所の人たちにお昼ごはんを作りに来ていたのです。

 その日のメニューは、豚の生姜焼き丼と味噌汁、サラダとのむヨーグルトでした。私たちも戸別配布を手伝った御礼にと、ご馳走してくれました。震災直後は現地で食事をすることなど考えられませんでしたが、4か月経って少しは状況も変わってきました。

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 これまでの被災地訪問の中で思ったことは、復興のスピードは首長の決断力、地元の人たちの熱意と、行政の対応によって決まるのではないかと感じました。

 南三陸町の復興スピードは速いわけではありません。内田兄弟の話を聴く限りでは、行政の対応が重しになっているように思えました。

 一方で同じくらいひどい状況の陸前高田市は、3月末と5月半ば、この7月初旬と3回訪れましたが、どんどんと復興が進んでいます。首長の決断力や地元の人たちの熱意が復興を進めているように思います。

 いわば地元の人たちの熱意が復興のアクセル、行政の対応がブレーキであり、首長の決断力はアクセルにもブレーキにもなります。地域外からのボランティアの数も復興のスピードに少しは影響していますが、復興のスピードそのものを決めているのは、自治体を構成する首長と市役所と住民であるように思います。

 自分たちの町は自分たちで何とかするという自立の精神こそが復興の第一歩であり、首長も行政も住民も一体となって推し進めないと本当の復興への道のりは遠いのではないかと感じました。