別冊モナリサ|やがて生まれくるものすべてのために、その地をハートランドと呼ぼう。






地震×宮沢賢治

賢治の人生は地震の軌跡と言ってよい。

1896年6月15日 「明治三陸地震」 が起きた。推定マグニチュードM 8.2-8.5。死者・行方不明者は2万余名と記録された

同年8月27日、宮沢賢治は、この地震で被災した岩手県稗貫郡里川口村(現花巻市)で生まれている。そして、陸羽地震が起きたのは4日後の8月31日である。M 7.2、死者200余り。

日露戦争開戦の前年、賢治が1903年(明治36年)に花巻川口尋常高等小学校に入るまでの幼少期、体感したM7以上の大規模地震は次のとおりとみられる。それぞれ死者を出す惨事であるが、ほぼ毎年のように地震に襲われている。

  • 1897年、2月20日 宮城県沖地震(M 7.4)
  • 同年8月5日 岩手県三陸沖地震(M 7.7)
  • 1898年4月23日 宮城県沖地震(M 7.2)
  • 1900年5月12日 宮城県北部地震(M 7.0)
  • 1901年8月9日、10日 青森県東方沖地震(M 7.2-7.4)
  • 1902年1月30日 青森県東部地震(M 7.0)

1909年(明治42年)、賢治は旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学し、1914年(大正3年)に卒業するまでに発生した大規模地震は次のとおりである。いずれも甚大な被害を受け、姉川地震では死者41人、秋田仙北地震は死者94人を数えた。

  • 1909年3月13日 千葉県房総半島沖地震(M 6.5 - M7.5)
  • 同年8月14日 姉川地震(M 6.8)
  • 1911年3月15日 秋田仙北地震(M 7.1)

1915年(大正4年)、賢治は盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に入学するが、同年11月1日、宮城県沖地震(M 7.5)が発生、岩手や宮城沿岸に津波が押し寄せ、被災している

1918年(大正7年)3月卒業と同時に研究生となり、1921年(大正10年)11月には稗貫農学校(後の花巻農学校、現花巻農業高等学校)の教師となる。

1923年(大正12年)8月に樺太へ訪問、翌月9月1日には大正関東地震(関東大震災)が起きた。推定マグニチュードM 7.9、死者・行方不明者10万人余り。翌年1924年(大正13年)1月15日にはその余震とみられる丹沢地震(M 7.3)が発生、死者19人を出している。

同年4月、賢治は心象スケッチ『春と修羅』を自費出版。12月、イーハトヴ童話『注文の多い料理店』刊行。1925年(大正14年)には文芸誌『銅鑼』に詩を発表するなど、以降、精力的に創作に取り組んでいく。1928年(昭和3年)6月、伊豆大島訪問。詩群『三原三部』『東京』、詩群『疾中』を発表。

1931年(昭和6年)、東山町(現一関市)の東北砕石工場技師となり、同年9月、農閑期商品として壁材の営業に出向いた東京で病に倒れ、帰郷する。
手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めたのは、その年の11月3日のことである。 この前後、次のような大規模地震が連発し、賢治の記憶に留まる。

  • 1930年2月13日-5月31日 伊東群発地震(M 5.9)
  • 同年10月17日 石川県地震(M 6.3)、死者1人
  • 同年11月26日 北伊豆地震(M 7.3)、死者272人
  • 1931年9月21日 西埼玉地震(M 6.9)、死者16人
  • 同年11月2日 日向灘地震(M 7.1)、死者2人

そして、1933年(昭和8年)3月3日、「昭和三陸地震」が発生する。震源地は釜石市東方沖200キロ。マグニチュードは8.1-8.3と推定される。

地震直後、詩人大木実へ宛てた見舞いの礼状で、賢治は、「海岸は実に悲惨です」と記したという。

その年の秋、9月21日、急性肺炎で永眠。享年37才。


延宝地震・象潟地震×松尾芭蕉

芭蕉が江戸、小田原町(現築地)に借住まいしていた折、延宝地震が起きる。千葉県以北の沿岸を襲った津波は江戸にも押し寄せ、小田原町に迫っていた。地震の被害状況は当時の江戸にも伝わっていたはずだが、芭蕉はこうした自然災害には触れていない。

同じ頃、振袖火事(1657年)で焼失した築地本願寺が海を埋め立て、延宝7年(1679年。延宝地震の2年後)に再建されている。3年後、芭蕉は小田原町を離れて深川に移り住む。

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紀元前、鳥海山崩壊により流れ山が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々が形成され、やがて堆積作用により、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖ができあがった。島々には松が生い茂り、風光明媚な地形ができあがる。

江戸時代までは、九十九島・八十八潟が景勝地となり、「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉は、「松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し」と評され、「象潟や雨に西施がねぶの花」(『奥の細道』、1689年)の一句を残す。

1804年象潟地震によって、海底が隆起し、陸地と化す。